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本文聚焦论争本身与各方观点,不涉及诡计细节。
背景:神作撞上“本格”的门槛
2005年8月30日,东野圭吾的《嫌疑人X的献身》(以下简称《X》)由文艺春秋出版,随后几乎横扫日本推理界所有重要榜单:
· 2005年12月5日,登上《2006本格ミステリ・ベスト10》(2006本格推理Best 10)国内榜第一位;
· 2005年12月9日,拿下《このミステリーがすごい!2006年版》(这本推理小说真厉害!)国内榜第一;
· 2005年12月21日,再获《週刊文春ミステリーベスト10》(周刊文春推理Best 10)2005年国内榜第一;
· 2006年1月17日,荣获第134回直木賞;
· 2006年5月12日,再获第6回本格ミステリ大賞(第6届本格推理大奖)。
一部作品,被本格推理的招牌奖项捧上顶峰,可就在榜单欢呼之时,一道质疑悄无声息地投入水面——这部被当作“本格杰作”来吹捧的小说,当真算得上本格推理吗?
争论很快挣脱“一本书好不好”的层面,演变成日本推理界关于“本格究竟是什么、评论该怎么写、谁有资格下定义”的一次总清算。这就是后来被称为 “X论争” 的事件。
一、导火索:二阶堂黎人的“非本格宣言”
二阶堂黎人(新本格推理作家)是这场争论的引爆者。
1.1 发端的原话
2005年11月28日,他在个人网站“黑犬黑猫馆”的“恒星日志”中写道:
「『容疑者Xの献身』に関して、今年の本格推理の収穫のように書いている書評を見た記憶があるのだが、それはちょっと違うのではないかと思う。…『本格(推理小説)として優れている』と評するならば、それは間違っている、と正す必要がある。何故なら、これは、折原一さんの(限りなく本格推理に近い)ミステリーと同じで、読者が推理し、真相を見抜くに足る、決定的な手がかりを(作者が)恣意的に伏せてある(書いてない)からだ。」
(我记得曾看到一些书评,把这部作品写得像是今年本格推理的一大收获,但这种说法恐怕有问题。……如果评价它为“作为本格(推理小说)很出色”,那就错了,必须纠正。因为这部作品和折原一先生的(几乎接近本格推理的)悬疑小说一样,作者刻意隐瞒了足以让读者推理并看穿真相的决定性线索,压根没写出来。)
同年12月5日,他再次重申观点,并提出“本格三条件”;12月6日回应我孙子武丸时,矛头已经明确指向评论界:
「もしも、異論があれば(特に、あの作品を本格だと思う評論家は)、堂々と、自分の本格観を示した後で反論を述べてほしいと思います。そして、私の意見のどこに間違いや錯覚があるのか、証明してみればいいのです。……それを行なわないのは、評論家として怠慢としか言いようがありません。」
(若有异议——尤其是那些认为该作是本格的评论家——请大大方方亮出你们的本格观,再提出反驳,并证明我到底错在哪里、哪里产生了错觉。……如果不这么做,那只能说这是评论家的失职。)
1.2 本格定义与三段式攻击
在《ミステリマガジン》(以下简称《MM》)2006年3月号上,他正式给出了自己的本格定义:
「<本格推理小説>とは、手がかりと伏線、証拠を基に論理的に解決される謎解き及び犯人当て小説である」(《MM》2006.3 p17下段)
(本格推理小说,就是依据线索、伏笔和证据,以逻辑方式解开谜题并找出凶手的小说。)
以该定位为准绳,他对《X》展开了三层攻击。
第一层:侦探汤川只是“推测”,不是“推理”。
「『容疑者Xの献身』がどうして本格ではないのか、理由は明白だろう。それは、読者が論理的な推理によって真相を見抜くに必用となる決定的な手がかりや証拠を、作者が恣意的に伏せてあるからだ。……どちらのトリックに関しても、名探偵役の湯川が結末で己の『推測』を語った際、決定的な証拠が存在しないことである。徹頭徹尾、『推測』と語り、『推理』とは言えない湯川の発言が、この作品がもしも本格だとすれば、非常な弱点である」(同 p18上段)
(这部作品为何算不上本格,理由显而易见:作者刻意隐藏了读者通过逻辑推理看穿真相所必需的决定性线索和证据。……无论针对哪个诡计,扮演名侦探的汤川在结尾说出自己的“推测”时,都拿不出决定性证据。从头到尾只说“推测”,不能说是在“推理”——如果这部作品算本格,这无疑是致命的弱点。)
第二层:读者同样无法进行严格的逻辑推演。
「『容疑者Xの献身』においては、そういう決定的な証拠は発見することができない(そのように、作者が書いているのだから)。故に、湯川も読者も、『推測』や『想像』はできても、厳密的な推論を積み上げて『推理』を行なうことはできないのだ。」(同 p19下段)
(在这部作品里,根本找不到那样的决定性证据——因为作者就是这么写的。所以,无论汤川还是读者,都只能“推测”或“想象”,却无法通过严密的推论来真正“推理”。)
第三层(再反论):作者故意隐藏线索
2006年1月17日的博客中,他挑明:东野为了完成作品的意图,刻意让一部分内容偏离本格形式,从而成就其优秀;既然作者有意识地偏离本格形式,那这部作品便不算本格。同年6月号《「X」問題の中間決済》(《X》问题中间结算)中,他进一步指出,作者始终让“侦探侧”与“读者侧”保持分离,是因为 “作者把惊吓读者、感动读者放在第一位”(同 p138上段)。
2006年9月26日《本格評論の終焉(最終回)》(本格评论的终结·最终回)中,他重申自己定义的正当性:“我所提示的定义,是在梳理过往推理小说群的本质倾向、亮明自己的本格观,并以自己的创作实践加以佐证之后才成立的。”
1.3 对“纯爱”的否定
「女性に対する石神の一方的な思いは、ストーカーもしくは変態的な気持ちの悪いものであって、けっして純愛などではない。どうやら、評論家は、帯の惹句『命がけの純愛』を鵜呑みにしたあげく、この言葉を鸚鵡返しに唱えているだけのようだ。」(《MM》2006.3 p17上段)
(石神对那位女性的一厢情愿,不过是跟踪狂或变态式的令人作呕的情感,绝非什么纯爱。评论家们似乎把腰封上‘拼命的纯爱’这句广告词囫囵吞下,然后翻来覆去地鹦鹉学舌罢了。)
1.4 关键定位:批判的是评论家,不是小说
2006年6月号上,他特意声明:
「私は東野圭吾氏や『X』を非難しているわけではない。『X』はとても面白い小説だし、トリックの面でも良質の発想を示している。私はあくまでも、『X』を『優れた本格』『感動』『純愛』『泣ける』などの空疎な標語で褒め称し、その根拠も示さずに読者を惑わした本格系評論家の言動を批判しているのだ。」(同 p137上段)
(我并非在指责东野圭吾或《X》本身。《X》是一部非常有趣的小说,在诡计上也有出色的构思。我批判的,始终是那些用“优秀本格”“感动”“纯爱”“催泪”之类的空洞标签来吹捧《X》,却拿不出任何依据,迷惑读者的本格系评论家的言行。)
这番声明,恰好为论争从“作品”滑向“评论方法”埋下了伏笔。
二、第一波反攻:为《X》的本格性辩护
二阶堂的“非本格说”立刻引来多位评论家、作家的反击。核心策略是拓宽“证据”与“推理”的边界。
巽昌章(2006.01.16 投稿于二阶堂博客)主张,本格的“证据”不必是法庭上的物证:
「本格推理小説の『証拠』は、物的証拠に限るものではなく、…要するに、読者がある程度納得するような推理の根拠、それが本格推理小説の『証拠』です。…湯川の人間観察はそれに似ているけれども、途中で彼がその見解を口に出して述べていますので、それ以降は、読者も湯川発言自体をひとつの手掛かりとして共有できます。」
(本格推理小说中的“证据”并不局限于物证……说到底,能让读者在一定程度上信服的推理依据,就是它的“证据”。汤川对人物的观察与此类似,而且他在中途就把自己的看法说了出来,从那以后,读者便可以把汤川的发言本身当作一条共享的线索。)
他还指出,历史上真正能“从证据中逻辑导出唯一结论”的推理其实很少,更多的是“被某个证据触发的想象”;并列举了文中多处读者可以察觉的线索:
「9頁に、石神が朝弁当を買いに来たとあり…<発見された死体の死亡時刻は10日夜>とされている。ところが、後の捜査で石神は<夜更かししたので、10日の午前は学校を休んだ>と述べ…<10日の朝は弁当を買わない>はずで…<富樫殺しは10日でない>ことを推認させる。…手掛かりがないとは到底いえない。」
(第9页写着石神早上来买便当……被发现尸体的死亡时间记为“10日夜间”。但后来侦查中,石神说“因为熬夜,10号上午请假了”……那他本应“10号早上没有买便当”……由此便可推断出,富樫并非死于10日。……要说完全没有线索,根本站不住脚。)
笠井潔(3月号)从类型共享逻辑切入,自称读到八成真相:
「筆者は、一〇九頁の時点で真相の八割以上を『論理』的に特定しえた。『論理』とは、歴史的に蓄積されジャンル的に共有されている探偵小説的論理性のことで、かならずしも数学的論理性を意味しない。」(同 p20上段)
(笔者在第109页时,就已经“逻辑”地锁定了八成以上的真相。这里的“逻辑”,是指历史上积累下来、在类型内部共享的侦探小说式逻辑,并不等同于数学逻辑。)
针对二阶堂的“物证观”,他反唇相讥:若把推理所需的“证据”理解为法庭级别的物证,那侦探小说史上此类“证据”其实数不胜数——连《僧正杀人事件》(主教谋杀案)里菲洛·万斯不也是靠调换杯子来惩罚没有物证的犯人吗?
有栖川有栖(8月号)则用“滑坡式”反驳:若因没有物证就判《X》非本格,那么《罗马帽子之谜》《占星术杀人事件》等大批名作也该被排除在外——
「『X』が本格でないのなら、物証がないからと探偵が罠を仕掛けるタイプの作品(『ローマ帽子の秘密』など多数)、あるいは探偵が直感でトリックを見破るタイプの作品(『占星術殺人事件』など多数)を指して『本格ではない』と排除することも、修辞しだいでは可能になる。ゆえに私は、二階堂氏の訴えに敗訴という審判を下さざるを得ず、氏が上告するならば、新たな証拠(論点や視点)が必要だろう。」(同 p60上段)
(如果《X》不算本格,那么那些因为缺乏物证而让侦探设下陷阱的作品(如《罗马帽子之谜》等很多作品),或者侦探凭直觉看破诡计的作品(如《占星术杀人事件》等很多作品),同样可以被修辞性地排除出“本格”之列。因此,我只能判二阶堂先生败诉;如果他还要上诉,就必须拿出新的论据——新的论点或视角。)
羽住典子(4月号 p141)和杉江松恋(4月号 p146)补充了文本内的线索:羽住指出“指纹那么轻易就暴露了尸体的身份,简直就像在喊‘快来确认身份吧’”;杉江则点出“靖子勒杀时美里也在帮忙,本该在尸体上留下伤痕,由此便可怀疑尸体被调包”。
三、笠井洁的第二条战线:侦探小说精神的丧失
二阶堂的批判停留在“诡计/线索”的技术层面,而笠井潔在《ミステリーズ!》《小説トリッパー》《MM》三本杂志上连续发表的论考,则把战线拉到了侦探小说精神史的高度——这比“是否本格”更为根本。
主张A:精神核心的丧失(《ミステリーズ!》vol.15,2006.2)
「『容疑者Xの献身』を本格探偵小説の傑作として評価しがたいのは、たんに論理パズル小説としての水準が低いからではない。英米の大戦間探偵小説、日本の戦後探偵小説(第二の波)、そして第三の波へと引き継がれてきた探偵小説の精神的核心を、この作品には認めることができないからだ。本格としての難易度の低さと、探偵小説的精神の形骸化は表裏一体である。……ホームレスが見えない社会に違和も反感も覚えない読者を対象に書かれ、その態度を追認し合理化するだけの小説は、外見だけ『本格』であろうと、すでに探偵小説の精神を喪失した抜け殻にすぎない。」(p294–295)
(我难以把《X》评价为本格侦探小说的杰作,不仅仅因为它在逻辑谜题层面水准不高,更因为这部作品里找不到那种从英美两次大战之间的侦探小说、日本战后侦探小说(第二波)一直延续到第三波的精神内核。本格难度的低下和侦探小说精神的空心化,其实是一体两面。……这部小说是为那些对“看不见流浪汉”的社会毫无不适、毫无反感的读者写的,它只是追认并合理化了那种态度——即便外表套着“本格”的壳子,也不过是一具丧失了侦探小说精神的空壳。)
主张B:环境管理社会的模型(《小説トリッパー》2006春季号)
他认为石神仿佛被撕裂成三个层面——19世纪人(教养派)、20世纪人(观念激进者)、21世纪人(心理杀手/宅男);他借用鲍曼案例中向导无意识地绕开贫民窟的隐喻,类比读者“看不见流浪汉”因而看不破诡计:
「『容疑者Xの献身』を、多様な読みにむけて開放された自由なテキストとして捉えることはできない。このテキストは読者から自由を剥奪するからだ。」(p106上段)
(不能把《X》当作向多元解读开放的自由文本,因为这部文本剥夺了读者的自由。)
「『容疑者Xの献身』は『探偵小説の精神を喪失した抜け殻』だが、二一世紀社会が必然的に産出した小説である事実は疑いえない。」(p109上段)
(《X》是“丧失了侦探小说精神的空壳”,但它又是21世纪社会必然产出的产物,这一点毋庸置疑。)
「『容疑者Xの献身』とは、まさに環境管理社会の模型である。……『容疑者Xの献身』を縮小模型とするネオリベ的な二一世紀社会から、どうしたら逃れうるかをわれわれは真剣に思考すべきなのだ。」(p109下段)
(《X》恰恰是环境管理社会的一个缩微模型。……我们应当认真思考:如何从这部作品所映射的新自由主义式21世纪社会中逃脱出来。)
主张C:倒叙=叙述推理小说(《MM》2006.3 p21)
「『容疑者Xの献身』は変型された倒叙探偵小説だが、同時に変型された叙述探偵小説(叙述トリックによる本格探偵小説)でもある。……石神が靖子を救うために凝らした作為の全貌を、読者は探偵小説的な謎として推理しなければならない。」
(《X》既是变形的倒叙侦探小说,同时也是变形的“叙述推理小说”。读者必须把石神为了拯救靖子而精心布置的全盘设计,当作侦探小说式的谜题来推理。)
四、对笠井的反驳:六位评论家的反论
笠井的“精神史”路线同样遭到密集反驳。反驳者大多不否认《X》是本格,只是不认同他的批判尺度。
巽昌章(5月号)针对“对流浪汉毫无感情的目光=精神丧失”一说:
「石神がホームレスたちを観察する場面の『無機質』で『モノに対するように冷淡』な視線とは、石神という人物の造形以前に、まず何よりも、本格推理小説の本質によって規定されたものであるはずだ。……登場人物のだれそれをかまわず、すべてが『モノ』扱いされるのも……元来、本格推理小説ではおなじみの光景なのだ。……かつて『犯罪経済学』を唱えた高木彬光が……すべての人間をモノ扱いし……強引な論理の別名であった。」
(石神观察流浪汉时“毫无感情”“像对待物体般冷淡”的目光,在塑造这个人物之前,首先就应该由本格推理小说的本质所决定。……把登场人物不加区别地当作“物体”来对待,原本就是本格推理小说里司空见惯的风景。……当年提倡“犯罪经济学”的高木彬光,不也曾把所有人当物体,把犯人随心所欲的计算美其名曰一种逻辑吗。)
有栖川有栖(8月号)提出“变奏说”:石神恰恰是全书中最能“看见”流浪汉的人,并且从中照见了自己的影子——
「石神は、無名の路上生活者に、『技師』という侮蔑的ニュアンスのない理系的な名前を与えた者でもある。……石神は極限まで屈折した形で、自分の似姿でもあるホームレスと運命を斬り結んだ。『X』は探偵小説の精神を変奏している、と私は見るのだが」
(石神还给那个无名的流浪汉起了一个“技师”的称呼,不带轻蔑意味,纯粹是理工科的叫法。……石神以一种极度扭曲的方式,与这个堪称自己镜像的流浪汉纠缠在了一起。在我看来,《X》其实是在变奏侦探小说的精神。)
他更直白地质疑前提:“即便它是空壳,难道就不能写、不能读了吗?”他主张,本格推理无论是否承载那层根本精神,单凭其形式本身就具有一种“无意义的美”。
蔓葉信博(10月号)从“现实世界丧失”的角度反将一军:不止流浪汉“看不见”,所有人都平等地不可见——
「『ホームレス』が見えなかったからといって断罪されることには違和感を覚えるのだ。いってみれば『ホームレス』以外だって、僕にしっかりと見えているかどうか自身がないのだ。すべてが平板な……現象学的世界ではないのか。」
(因为“看不见流浪汉”就被定罪,这让我感到不适。说到底,就连“流浪汉以外”的东西,我也没把握自己是否真的看清楚了。难道这不就是一个一切都平平无奇、勉强显出立体感的、现象学的世界吗?)
他还现身说法:自己同时做了三重阅读——把它当作《虚无的供物》式的异常动机作品来读,当作搭“纯爱”热潮的应时读物来读,也单纯为了“废柴中年的悲恋”而落泪。
佳多山大地(11月号)对“社会学/政治信条直接绑定作品评价”的做法深感不适:
「笠井氏の言う『探偵小説の根本精神』がご自身のジャンル史観に基づくもの――大量死=大量生社会に対する異和――であったのに対し、僕が『本格マインド』などという言い方をする場合、それはあくまでも先行作品へのリスペクトの有無を判断するために用いてきた。つまり『本格の魂』は、偉大な古典的形式をクリエイティブに再構築しようとする後発者の技術にこそ宿ると。……『X』の評価がこのような政治信条の問題と直結されていることに拭いがたい違和感をおぼえます。」
(笠井先生所说的“侦探小说根本精神”,是基于他自己的类型史观——即对“大量死亡=大量生存”社会的违和感;而我提到“本格精神”时,向来只用于判断作者对前人作品是否怀有敬意。也就是说,“本格之魂”应该寄居在后继者创造性地重构伟大古典形式的技术之中。……将《X》的评价如此直接地与政治信条挂钩,让我感到一种挥之不去的违和。)
千街晶之(《CRITICA》第1号)打了个“以子之矛”的比方:
笠井曾高度评价北村薫《盘上之敌》中“作者设给读者的诡计”与“时代的荒凉现实”,如今却用不同的尺子来衡量《X》;况且——
「普通に考えて、二十年近くものあいだ、ひとつの精神性が持続するわけがない。……二〇〇五年に発表された『容疑者Xの献身』の支持者に対して、第三の波初期の作家・作品に見られた精神性を物差しにした批判を行うのが、果たして有効なのかどうか。」
(正常来说,近二十年间同一种精神性怎么可能持续不变?……拿第三波初期作家作品的精神性作为标尺,去评判2005年《X》的支持者,这种做法真的有效吗?)
鷹城宏(e-Novels“週刊書評”)指出,石神并非“同时分裂”,而是随着情节推进在“转调”(纯爱→跟踪狂→〈纯爱〉);他还坦言,一部单篇小说很难承载笠井赋予它的“环境管理社会模型”那种特权化的宏大意义——不过他也补充,这并不否定“看不见流浪汉”这一指摘本身的合理性。
五、次级战场:难度与纯爱
论争还溢出两个热闹的次级话题。
5.1 “难度低”之争
批判方:笠井洁称《X》“作为本格难度并不高,顶多算初学者水平”,“不到全书三分之一处,真相就已露馅”(3月号 p20–22);小森健太朗(e-Novels及5月号 p14)称尸体调包是陈年老套,“在我视野里看不到任何开拓本格可能性的要素,不过是既有技法的缩小再生产”,并将作品的高评价归因于“三重衰退”(推理力、记忆力、思考力的衰退):
「この作品への高評価は、そういう三重の衰退から生じている。いわゆる新本格ムーブメントが始まって十数年がたち、評価し受容する側に蔽い隠しようのない頽廃と荒廃が広がっている。」
(对这部作品的高度评价,正源于这种三重衰退。所谓新本格运动已过去了十多年,在评价和接受的一端,已经弥漫着无可掩饰的颓败与荒废。)
反论方:
· 鷹城宏:倒叙+尸体调包组合成了一种误导,读者被“开头就给出宝物(犯人已知)”的结构骗过,根本不会去想“尸体调包”这条推理路径;
· 佳多山大地:倒叙风格让“无脸尸体=替身杀人”这一古典等式从一开始就被排除在外;
· 蔓葉信博:“促使读者推理的机制如今正面临危机”,单凭难度这一把尺子去衡量并不准确;
· 巽昌章:难度并非唯一标准,也可以欣赏“美丽的逻辑形态”(他举殊能将之《剪刀男》为例,大意也容易被看破);并指出《X》靠三条“抵抗线”(倒叙结构、电影馆不在场证明、昭和三十年代式朴素下町生活感)让读者不容易起疑。
5.2 中间定位说
羽住典子(4月号、8月号)认为《X》是“故事趣味与诡计趣味一体化”的作品,并据此给出高评价;巽昌章称它“既活用了第三波的谜题性,又折返到日常现实主义与大众性一侧”;つずみ綾(5月号)则批评这种“计算过的不彻底”不过是“过去作品的缩小再生产”。
5.3 “纯爱”之争
将动机读作特异/非人者:
· 二阶堂(“跟踪狂/变态”,见1.3);
· 千街晶之(类比连城三纪彦的风格,但“并未超越连城的地盘”);
· 大森滋樹(“杀人追女子的故事”“翻过来的《电车男》”,但也用本格的扭曲来逼问:杀人是否可以被纯爱正当化?);
· 波多野健(4月号 p143)指出,《X》真正的意外性核心“并非推理层面的意外,而是人物造型(性格与心理)的意外”——石神在“已经发生的杀人”面前,像棋手一样瞬间编排出最善最强的一步棋,其名“石神哲也”就是为此而设;石神在精神上早已“死了”,所以“纯爱、石神真爱靖子之类根本不存在”,这种暧昧可疑之处,恰恰让二阶堂另立了“恋慕美里说”:
「だから、『純愛』とか、石神が靖子を本当に愛したとかいうことはなかったはずである。そのへんの胡散臭さが、二階堂黎人氏をして『別の真相』(靖子ではなく美里への恋慕説)を立てさせたのであろう。」
(所以,“纯爱”或者石神真正爱过靖子之类的说法,恐怕根本就不成立。正是这种暧昧可疑,才促使二阶堂黎人提出了“另一种真相”(不是爱靖子,而是爱美里)的假说。)
· 杉江松恋(“进化后的本格典型”,石神杀害无关者暴露其非人侧面,但“老练的读者不该太惊讶,因为装置本身并非原创”)。
批判“纯爱解读”者:
· 小森健太朗(5月号、7月号、CRITICA):那些把“纯爱”读成作者“战略”的人,反而对作品本格性的空洞视而不见;他还指出,东野与石持浅海作品的共通点在于“主人公沉迷于自己幻想搭建的友情/恋爱故事”;
· 我孙子武丸(6月号 p135):汤川与靖子都承认“献身”本就是作者的价值观,部分评论者的“双重阅读”属于过度解读——“如果作者持有那种价值观,普通读者会认为它和作者自身的价值观是重叠的”;
· 野崎六助(7月号 p150):“把纯爱路线当作作者的‘战略’来解读,既不正确也不礼貌——想用‘商魂’(营商本能)来解释,才会弄巧成拙”,并戏称“纯爱本身就是这部作品一回限定的最强隐藏诡计”。
六、最深的裂缝:评论方法之争(元论争)
争论进行到中后期,焦点悄然转移——“评论家在推崇一部作品之前,是否必须先给出‘本格’的定义?”
6.1 要求定义方:二阶堂黎人
2005年12月6日,他就要求评论家“亮出自己的本格观”;2006年6月号更明确表示:
「少なくとも、手放しで『優れた本格』と推奨したのであれば、その根拠とすべき〈本格〉の定義ぐらい表明してほしい。本格の定義は年代や状況によって変わるという意見もあるようだが、ならばその都度、きちんと新しい定義を立てて読者に開示すべきだろう。論拠も立脚点も示さず、どうして評論活動ができるのか、私にはまったく理解できない。」(同 p138上段)
(至少,既然无条件地推荐为“优秀本格”,那就应该表明作为依据的“本格”定义。有人说本格定义会随年代和情况而变,那更应该每次都认真建立新的定义,向读者公开。既不拿出论据,也不表明立场,评论工作怎么能做下去?我实在无法理解。)
他强调,都筑道夫、笠井、岛田等前辈都先谈过总论和根本原理;不给出定义就盲目赞美,就是失职。
6.2 反对要求定义方(占据多数)
田中博 2006.01.17私信
无论怎么下定义,也只会被视为“众说之一”;类型本就暧昧,批评的意义在于“持有何种本格观、能对读者生产性地说什么”,而不是下定义本身。
巽昌章 2006.01.16投稿
评论家是在摸索中逐步前进的,不需要事先亮明立场或定义:“不必先确定海的边界,也可以跳进海里潜水、一边摸索一边写观察报告”
吉野仁 2006.01.17博客
连生物学都无法做到绝对分类;印象式批评比理性的“诡辩”对读者更有用;并引用让·雷诺阿的话:“感官万岁,脑子见鬼去吧”
大森滋樹 2006.4 p100
严格定义是“普罗克拉斯提斯之床”(削足适履);本格应该保有游戏性和余裕,以防视野变得狭窄
杉江松恋 2006.4 p145
本格的暧昧恰恰是类型丰富性的来源;把“创作动机”作为条件令他感到违和,“没有本格之爱也能生出本格”
つずみ綾 2006.5 p214
“什么都算本格”是伪相对主义;真正的相对主义不会压制异见
羽住典子 2006.8 p62
正因为词语没有定义,不靠默契、通过辨析异同来推进讨论,才是深化论争的前提
千野晶子 2006.10 p148 批判“我们派”(自称类型代表)的结构,类似于网络上的“攘夷式我们日本人”
佳多山大地 2006.11 p73
定义论说到底不过是一种趣味表态;应当尊重“倒叙/叙述诡计不算本格”等不同立场
6.3 第三方的关键观察
岛田庄司(《2007本格ミステリ・ベスト10》p87访谈)痛斥现状:
「今は、ああいうことを本格はやってはいけないとか……学校の先生みたいな威圧発言、禁止罰則発言が横行しています。異端審問官の監視みたいな発想に多くがやられ、若さを失っている。……意見表明をするのはいいですが、一回か二回で充分です。それよりも早く創作しましょうよということです。現状に、可能な限り抵抗しようということです。」
(现在的情况是,有人说“本格不能这样写”“那样也不行”——就像从前让人讨厌的教导主任那样,威压性的、禁止惩罚式的言论四处横行。很多人被异端审判官式的监视思维所困,失去了朝气。……表达意见可以,但一两次就够了。更重要的是,赶紧去创作吧。要尽可能地抵抗当下的风气。)
田中博(私信其二)指出:
在既有权威与传统评价轴都已被相对化的处境中,批评家必须意识到“自己的定义也不过是众说之一”;“持有自己的定义,同时以它和一般认知之间的落差为前提去验证,这才是批评应有的姿态——在相对化的风暴中起舞,就是批评。”
諸岡卓真(《CRITICA》第1号 p54–58,点出了一个更冷峻的结构性问题——“排除系统”:
「個々の本格原理主義的な態度は……それぞれの〈マイ本格〉の定義に基づいて『非本格』を設定し、それをジャンルから排除しようとするという点では奇妙に共通してしまう。つまり、本格原理主義の共同性とは、ポジティブな『本格』の定義を共有することによって生み出されるのではなく、同じ『非本格』(仮想敵)を共有することによって生み出されるのだ。……すなわち、〈本格とは非本格ではないものである〉。」(p54–55)
(各自的本格原教旨主义态度……基于各自的“我的本格”定义去设定“非本格”,并试图将其逐出类型——这一点上,它们奇妙地一致。也就是说,本格原教旨主义的共同性,并非来自对积极的“本格”定义的共享,而是来自对同一个“非本格”(假想敌)的共享。……换言之:本格=非非本格。)
他接着呼吁:
「自らを包囲しているそのようなシステムの存在を自覚し、それに対処(改善)していくことはできるはずだ。……いまこのジャンルが優先すべきなのは、〈本格のなかの本格/非本格〉探しではない。言説には現れない形で機能する〈本格のなかの本格〉システムを明るみに出し、その問題点を検証、批判していくこと。……そこから始めなければ、『本格ミステリ』は早晩終焉を迎える。」(p58)
(我们应该意识到包围着自己的这种系统的存在,并设法去应对、改善它。……眼下这个类型最优先该做的,不是寻找“本格之中的本格/非本格”,而是把那些不显山露水却在暗中运作的“本格之中的本格”系统摊到阳光下,检验并批判其中的问题。……如果不从这里开始,‘本格推理’迟早会走向终结。)
笠井潔(12月号 p144–146)则将火力指向了评论家自身的定位——他区分了“批评家(critic)”与“解说者(commentator)”:
「批評は創作と等価の、自立した固有領域である。……『小説の前には立たない。立てない』ような評論、ジャンルの従僕としての評論とは、玉子のよしあしを機械的に振り分ける点で、ジャンルの機能としてのコメンテイトにすぎない。……ベルトコンベアが動きをとめようとしている、危機[クリティツク]の瞬間を的確に把捉するのは、いうまでもなく批評家[クリティック]の仕事である。この点で大多数の論評家は、クリテックではなくコメンテイターでしかない事実を、『容疑者Xの献身』論争を通じて自己暴露したといわざるを得ない。」
(批评是与创作等价的、独立的固有领域。……那种“站在小说面前站不住、也不敢站”的评论,那种充当类型仆从的评论,不过是机械地分拣鸡蛋好坏,属于类型功能层面的“解说”。当传送带将要停下、危机(critique)时刻来临,准确抓住这个瞬间的,无疑是批评家(critic)的工作。在这一点上,大多数论评家通过《X》论争不得不自我暴露:他们不是critic,只是commentator。)
他甚至把二阶堂和有栖川一并纳入批评范围(“二阶堂把评论家看作类型的仆从,有栖川则明确表示‘评论在小说面前站不住’——这两者其实相差无几”),并质问那些被小说家轻视却无法正面反驳的评论家“到底算什么”。
有栖川有栖(8月号 p61)则回应以“一羽の赤い鳥”(一只红鸟)的姿态:即便被人讥为“那是白痴的美”,他依然要唱道:“本格推理无论是否披着那层根本精神,单凭其本身,就具有一种无意义的美。”
佳多山大地(11月号 p74)也重申,笠井将《X》的评价与“大量死亡=大量生存”的政治批判直接挂钩,等于把不支持该批判的人一律打成“对格差社会毫无疑问的人”——这让他感到强烈的不适。
七、关键人物立场档案
以下按阵营整理主要登场者的身份与核心立场,便于快速把握“谁站在哪一边”。
发难 / 非本格派
· 二阶堂黎人(新本格作家):论争的引爆者。主张《X》非本格,理由为作者刻意隐藏决定性线索、汤川只“推测”不“推理”;要求评论家亮出本格定义;强调自己批判的是空喊口号的评论家,而非小说本身。代表出处:《MM》2006.3、6月号;博客《本格評論の終焉》连载。
辩护《X》为本格 / 拓宽边界者
· 巽昌章(评论家):以“证据”广义化来反驳,主张本格证据不必是物证,读者可共享汤川发言作为线索;自认采用“手探り”(摸索式)评论,拒绝事先亮明立场。代表:《MM》2006.5、二阶堂博客投稿。
· 笠井潔(小说家,评论家,哲学背景):在109页即以“类型共享逻辑”锁定八成真相,是二阶堂“非本格说”的有力反驳者;但他另行开辟“精神丧失/环境管理模型”第二战线(见第三章)。代表:《MM》2006.3、《ミステリーズ!》vol.15、《小説トリッパー》2006春。
· 有栖川有栖(新本格代表作家):以“滑坡式败诉判决”反驳非本格说;后对笠井提出“变奏说”,主张本格具有“无意义的美”。代表:《MM》2006.8。
「精神史」批判线的反论者(六人)
· 巽昌章:流浪汉的目光首先应由本格本质决定,而非精神丧失。
· 有栖川有栖:石神最“看见”流浪汉,是精神的变奏;空壳也能写也能读。
· 蔓葉信博:不止流浪汉“看不见”,所有人都等价地不可见;自陈三重阅读。
· 佳多山大地:笠井将评价直连政治信条让他感到违和;“本格之魂”=后发者重构古典的技术。
· 千街晶之:以子之矛——笠井曾高评北村薫《盘上之敌》,如今用第三波初期精神标尺量2005年作品,实为无效。
· 鷹城宏:石神形象随情节“转调”而非同时分裂;一部小说难以承载“环境管理模型”的特权意义。
次级战场活跃者
· 小森健太朗(作家/评论家):批“难度低”和“三重衰退”;反批把纯爱当作者战略是自我满足。代表:e-Novels、《MM》2006.5、7月号、《CRITICA》。
· 我孙子武丸(作家):认为“双重阅读”过度解读,“献身”本就是作者价值观。代表:《MM》2006.6。
· 野崎六助(评论家):纯爱本身就是最强的隐藏诡计,将其解读为“战略”不够礼貌。代表:《MM》2006.7。
· 大森滋樹(评论家):以“本格的歪斜”逼问纯爱的正当化;主张以暧昧的“模型”而非严格定义来考察。代表:《MM》2006.4。
· 波多野健(评论家):指出真正的意外在人物造型而非推理;石神精神已死,“纯爱”并不存在。代表:《MM》2006.4。
· 杉江松恋(评论家):称《X》为“进化后的本格典型”,但装置并非原创。代表:《MM》2006.4。
· つずみ綾(评论家):批评“计算过的不彻底”是过去作品的缩小再生产;警惕“什么都算本格”的伪相对主义。代表:《MM》2006.5。
· 羽住典子(评论家):主张“故事趣味与诡计趣味一体化”的中间定位。代表:《MM》2006.4、8。
评论方法之争(元论争)各方
· 田中博(评论家):定义只会被视为“众说之一”;批评是在相对化的风暴中起舞。代表:私信(2006.1)、个人站所感(2006.10、11)。
· 吉野仁(评论家):印象批评优于理性诡辩;分类本就不可能绝对。代表:博客(2006.1.17)。
· 千野晶之(评论家):批判“我们派”自称类型代表的结构。代表:《MM》2006.10、《CRITICA》。
· 岛田庄司(新本格旗手作家):痛斥异端审判官式发言,劝作家“赶紧去创作”。代表:《2007本格ミステリ・ベスト10》访谈。
· 諸岡卓真(探偵小説研究会):指出“本格=非非本格”的排除系统,呼吁将其摊到阳光下批判。代表:《CRITICA》第1号。
· 笠井潔:区分critic与commentator,指大多数论评家只是传送带上的鸡蛋分拣工。代表:《MM》2006.12。
本质与结语
回望这场X论争,最迷人的地方或许并不在于它得出了什么结论——事实上,它几乎没有结论。真正被照亮的,是日本推理界围绕“本格”二字积攒了几十年的深层焦虑:当类型边界日益模糊,当读者用“感动”而非“诡计”来投票,当评论家不再共享同一套语言体系,我们究竟该用什么话语来谈论一部作品?
二阶堂要定义,笠井要精神,有栖川要美,岛田要创作,诸冈要警惕排除系统——他们谁也没能说服谁。但恰恰是这种谁也说服不了谁的嘈杂,构成了一代人对“本格”最诚实的集体注脚。
而整场争论中最值得记取的,或许是那个被反复印证、却始终无人认领的提醒:争论常常不再关乎“何为本格”,而是关乎 “谁才掌握了正确的讨论方式” 。当各方都在切断对方的语言,都自认握有绝对的正当性,“本格”自身的丰富性和时代精神的影响反而从论点上滑落了。走出自己所信的“正确”,即便于己不利也要站到对方的土俵上,把彼此的话语重新连接起来——这或许才是论争留给后世真正有用的程序。
时间线与补遗
8.1论争五阶段
1. 发端与网络争论(2005.11–2006.01):11.28 二阶堂发难;论坛、我孫子武丸、田中博、吉野仁等回应。
2. 转向杂志争论(2006.01–03):《MM》3月号起连载「現代本格の行方」(现代本格的去向);e-Novels书评集特别编;笠井三篇论考连续发表。
3. 网络再燃(2006.04–10):6月号二阶堂再反论触发复燃;二阶堂连载《本格評論の終焉》(本格评论的终结)共8回+终回;与探偵小説研究会公开问答(9.11);蔓葉质问/二阶堂回答(10.5–6)。
4. 走向终结(2006.10–12):12月号座谈收尾;《2007本格Best 10》收录岛田访谈与座谈会“《X》论争是什么”。
5. 补遗:详见9.3。
8.2 杂志座谈「現代本格の行方」全10期参与者
期号/参与者 / 原稿
2006.3 二阶堂黎人《〈X〉是本格与否》、笠井洁《〈X〉是低难度本格》
2006.4 大森滋樹、蔓葉信博、羽住典子、波多野健、杉江松恋
2006.5 小森健太朗《高评价形成的三重衰退》、巽昌章《对暧昧的视觉》、つずみ綾《对伪相对主义的警钟》
2006.6 我孫子武丸《嫌疑人X是“献身”的吗》、二阶堂黎人《X问题中间结算》
2006.7 小森健太朗、野崎六助《围绕盲点X的诸问题》
2006.8 有栖川有栖《红鸟的啭鸣》、羽住典子《X的贡献》
2006.9 法月綸太郎、小山正
2006.10 千野晶子、蔓葉信博《刻印开示》
2006.11 我孫子武丸、佳多山大地《漫长的告别》
2006.12 二阶堂黎人《X不是倒叙》、笠井洁《传送带已停止——commentate与critique的差异》
8.3 关键节点年表(精选)
日期/事件
2005.08.30 《X》发售
2005.11.28 二阶堂发难(非本格说)
2005.12.05 本格Best 10国内第1;二阶堂提“本格三条件”
2006.01.17 直木奖;巽投稿、田中私信公开
2006.01.25 起 《MM》“現代本格の行方”连载
2006.03 二阶堂本格定义、笠井三篇论考登场
2006.04–05 笠井、小森“难度低”批判
2006.06 二阶堂再反论,网络再燃
2006.08–09 二阶堂《本格評論の終焉》连载;与研究会问答
2006.10 千野稿、田中所感;蔓葉质问/二阶堂回答
2006.12 座谈收尾;岛田访谈
2007–2014 《CRITICA》续刊、各类回顾文
8.4 补遗:论争的后续余波(2007–2014)
杂志座谈落幕后,争论以不同形态在《CRITICA》(探偵小説研究会机关志)与各类回顾文中延续:
· 《CRITICA》第2号(2007.8):千街晶之《崩壊後の風景をめぐる四つの断章》(围绕崩坏后风景的四个断章)、田中博《現代ミステリにとって何が問題なのか》(对现代推理而言问题何在)、千野晶子《少年探偵団は二度死ぬ。――ジャンルを語ろうとして》(少年侦探团死两次——试图谈论类型)。
· 《CRITICA》第3号(2008.8):市川尚吾《本格ミステリの軒下で》(本格推理的屋檐下)、千街晶之《断章後日譚――加賀美雅之氏および笠井潔氏への返答》(断章后日谈——致加贺美雅之与笠井洁的答复)、小森健太朗《『断章後日譚』千街さん原稿への応答》(对千街稿的回应)。
· 《CRITICA》第4号(2009.8):千街晶之《続・断章後日譚――笠井潔の『魔境』》(续·断章后日谈——笠井洁的“魔境”)。
· 《CRITICA》第5号(2010.8):鷹城宏《アーキテクチャ試論》(架构论)、市川尚吾《路頭迷走》(流落街头)。
· 《CRITICA》第9号(2014.8):波多野健《『容疑者Xの献身』再説――インドで考えたこと、江戸歌舞伎の「泣かせ」の腑分け》(《X》再论——在印度想到的、江户歌舞伎“催泪”之解剖)。
· 2009年:宝岛社《僕たちの好きな東野圭吾》(我们喜爱的东野圭吾)收录栗原裕一郎《5分でわかる『容疑者X』論争》(五分钟看懂《X》论争),以通俗笔法为论争作了总括。
· 2012年:原书房《本格ミステリ・ディケイド300》(本格推理十年300)收录小田牧央《『容疑者X』論争は本格ミステリに貢献したのか?》(《X》论争对本格推理有贡献吗?),对论争的得失进行了反思。
· 石原千秋《読者はどこにいるのか》(读者在哪里,河出书房)p195起也触及了X论争。 |
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